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ショパンの「別れの曲」はピアノ音楽に興味のない人でも聴いたことのある曲の一つと思う。
恵比寿の東京都写真美術館ホールで上映されたこの映画は≪「別れの」曲にのせて描かれる、若きショパンの青春と悲恋!≫のサブタイトル通り、ショパン青春の一コマのお話。 1934年に製作され、日本ではその翌年(昭和10年)に公開されて大ヒットとなったそうだ。白黒の映像が時代背景を感じさせる。 このチラシに映画作家の大林宣彦さんがこんなメッセージを寄せている。 「ショパンの別れの曲がそう呼ばれるようになったのは、この映画の邦題がそうだったからだよ。僕が子供の頃の話で、僕はこの映画とショパンの音楽に恋してしまったんだ!いま僕が映画作家なのもそのおかげさ。」 「別れの曲」とは練習曲作品10の3番目の曲。ヨーロッパの国々でも他の愛称がついているそうだ。 「別れの曲」自筆譜 大林さんが言われる通りこの映画はショパンの曲の中でも特に親しみやすいもので構成されている。 当時ロシアに支配されていたポーランドで独立蜂起(ワルシャワ蜂起)の運動が起きた。 それがきっかけでショパンは音楽の都パリへと。 引き裂かれた、ショパンとコンスタンツィアという二つの純粋な魂の恋物語が音楽の素晴らしさと共に感動的に描かれている。 別れの曲を始め「革命」(練習曲作品10の12)英雄ポロネーズなどの傑作が、随所に生き生きと演奏されていたのがより一層の効果をもたらしていた。 ポーランドから会いに来たコンスタンツィアは、サンドを愛し始めているショパンを見出し、かつて彼女のために作曲したと言う「別れの曲」を弾いてくれと頼む。 そして彼女はその曲を聴きながらそっと故郷に帰るというところで映画は終わっている。 ここで面白いと思ったことを記してみたい。 チラシには「76年前に製作され、ショパンについて現在考証されている事実から離れたフィクションの部分がある」との断り書きがある。 史実ではショパンの婚約者として知られるマリヤ・ヴォジンスカをここではコンスタンッィアとしているらしい(コンスタンツィアは初恋の人)。 彼女(マリア)との婚約がうやむやになった失意の時期に、ジョルジュ・サンドとの愛が始まっているが、映画ではサンドに夢中になったショパンにコンスタンッィアが失恋したとなっている。 英雄ポロネーズはもっと後になって作曲されているのに、この曲がきっかけでリストと出会うことになっていたり┄┄etc. ショパンの作品は民族的な音楽をもとにしているものが多いが、どれもショパンの世界へと昇華させている。 ポロネーズにしても外面的効果を狙っているのではなく、その中に彼自身の独白を聴くことが出来る。 そして映画のこの場面がショパンとリストとの本質的違いをしっかりと捉え表していたのが嬉しくもあり驚きでもあった。 ロマン派と言われるこの時代、芸術の分野は大きな星達がたくさん現れている。 この映画でもリスト、パガニーニ等の音楽家との親交が面白く描かれていた。 また、バルザック、ミュッセ、ユーゴー、デュマ、サンド等の文豪、詩人たちがサロンに集まりショパンやリストの演奏に聴き入る場面には少なからぬ興奮を覚える。 ショパンが作曲家としての豊かな実りを手にするのは、この物語の後と言っても過言ではない。 傑作と言われる作品の多くはサンドとの9年に亘る同棲生活の間に生み出されているからだ。 生誕200年に因んで、この後のショパンそして誤解され続けてきたジョルジュ・サンドについても書いてみたいと思う。
by akoy28
| 2010-09-13 22:50
| 音楽
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