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11月25日、この日は大泉学園のゆめりあホールにてMさんのピアノリサイタルを聴く。
Mさんは友人の姪御さんで小学生の頃からを知る仲。いわば身内のような気持ちで、まさに応援団である。客観的に聴くというより祈るような気持ちだった。 彼女は小さい時からピアニストになりたいと勉強を続け、長年ドイツでも研鑽を積んできた。 しかし、紆余曲折あり病にも倒れ沢山の悩みを抱えてきた彼女。 今日はどんな演奏を聴かせてくれるのだろうかと、ドキドキしながら会場におもむいた。 3大B(べー)と言われるドイツの誇る三人の大作曲家。その傑作ばかりのプログラム。 このプログラミング自体が大変な意気込みと、考えの表れであると思われる。 「こんな重たいプログラムでお客さんが入るのだろうか」との本人の心配をよそに、満席だった。 バッハ パルティータ第2番ハ短調 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番 OP.110 ブラームス ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ OP.24 バッハのパルティータ第2番 右手の美しい旋律がよく歌われ、軽やかな表情でコンサートは開始された。 各々性格の違う四つの舞曲アルマンド、クーラント、サラバンド、ロンド。そして前後にシンフォニアとカプリチオ(イタリア語ではカプリッチョ 気まぐれ)が配されている組曲。 演奏者自身の解説によると「一曲一曲に強い個性、そしてあわせ聴いたときのバランスの良い美しさがこの曲の愛されるところ」 一つ一つの曲が丁寧に分析され、それらが生き生きとした流れに説得力を持たせている。「音楽の愉しみ」が伝わってくる演奏。 2曲目のベートーヴェンはフーガ(主題となるメロディーをいくつかの声部が追いかけたりリズムや調を変えて発展させる音楽の形式)を含む3楽章からなる大曲。 いわゆるベートーヴェンの作品の後期に当たるソナタの一つ。 解説から抜粋すると「第2楽章の即興的な断片は嘆きの歌へと変わり、二つのフーガは最終部分へと流れ込む。 それは、まるで何かからの開放を思わせ、そこにおいて主題はまさに輝きを放ち「救い」の性格を強め我々を導いていくのである。」 内容的に極めて精神性が強く難解と思われるこのソナタを、親しみ深く聴かせるほどに理解し演奏者自身の声となって聴く者の心へと届く。 休憩後のブラームス ブラームスは変奏曲の大家と言われるほど素晴らしい変奏曲を数多く作曲している。 なかでも最も優れた作品がこの「ヘンデルヴァリエーション」だ。 1862年28歳の時の作品。主題はヘンデルの「ハープシコード組曲」 ヘンデルはこの主題に五つの変奏曲を付けているが、ブラームスは25の変奏曲とフーガを付け大規模な作品としている。 ヘンデルの古典的佇まいを感じさせる簡素な主題を、ブラームスは緻密でがっちりした構成で、優れた音楽的知性を感じさせる変奏曲として仕上げている。 古典の均整を保ちながら底にロマン派の熱い感情が流れ、演奏技巧的にも極めて難しい。 最後のフーガについて演奏者は「威厳のある大きな形式のフーガ。一連の作品の構成はより発展させられ、終わりに来て紛れもなく輝かしいオーケストラ曲のような高みに達するのである」と書いている。 3曲中、この曲の演奏に私は最も感動。端正な主題から最後のフーガに至るまでの道のりが手に取るように分かり、得心させられた。 特にフーガはオーケストラのスケールを持ち、堂々として圧巻。 虚飾を排した舞台、作品に合わせた控えめで気品のある衣装。 しかし、演奏が進むにつれ音楽の輝きと共に舞台に暖かさと彩りが加わる。 クラッシック音楽では先ず作品ありき、過去の傑作を現代に甦らせる使者としての演奏家のスタイルを貫く姿勢が潔く心地良い。 作曲者に対する畏敬の念と作品への愛情を聴きとることができて嬉しかった。 見事に自分自身を乗り越えた彼女のこの日の素晴らしい演奏に、心からの拍手を贈りたい。 #
by akoy28
| 2010-11-30 14:48
| 音楽
11月14日 Tさん企画のピアノ教室「第二回ウォーキング」です。
中央線豊田駅11時集合。駅から南の方向にしばらく行くと、目の前に浅川(あさかわ)の土手が見えてくる。 土手に登ると水音が思いの外大きい。Tさんの説明によると川底が浅いためとのこと。水は澄んでいて川底の石が透けて見える。 浅川は東京都の陣馬山付近を源とし、日野市で多摩川に合流する支流のひとつ。 川床が高く傾斜が急なため、度々氾濫して流路を変えてきたそうだ。 私たちが歩いた場所でも護岸工事があちこちで見られた。 しかしここでは、護岸をコンクリートで固めてしまうやり方だけでなく、ヨシなどの植物によって水の勢いを抑える取り組みもされている。水質も浄化するなど、自然環境に配慮しているそうだ。 白い少し大きめの鳥(初めて観た鳥)、カモの仲間などの水鳥も見ることが出来る。 流れが堰き止められているところでは釣りをする人も。 ここはTさんのスロージョギングのコース。晴れた日には富士山がきれいに見えるそうだ。 「富士を見ながら」は曇っていて残念ながら実現しなかったが、広々とした川幅と川岸の風景が、のんびりペースの我々にはぴったり! 初参加のAさんも混じえて近況報告を兼ねたお喋りに余念がない。 30分ほど歩くと対岸への橋が見えてきたが、ここは車も通るのでパスし不動尊で架けた「ふれあい橋」で渡ることに。 橋の上で写真をとっていると「何しているの?」と声がかかる。見ると小学4年生くらいの男の子。Tさんの話しによると高幡不動へ案内してくれるということだ。 老人ホームで待っているからと自転車で去っていった男の子の後を追うようにして歩いたが、老人ホームを見落としたようだ。 程なく後ろから追いかけてきて、付いてくるようにとまた先へと走って行ってしまう。 「もしもし、こちらは歩きですが---」 自転車の姿が見えなくなった角を曲がったところで待ってました。 そこから高幡不動の駅までの道順を教えてくれ、彼曰く「お駄賃」のアメをAさんから受け取ると反対方向に走って行った。 聞けば、これから空手の練習に行くとか。その時間にはギリギリだったのに親切に教えてくれて有難う!おかげで迷うことなく駅に着くことが出来ました 駅の近くのレストラン「マリベン」でランチ。ネットで調べたこのお店はスペイン料理店。 全員「ランチパエリヤコース」を注文し、スペインのビールで乾杯。 ビールはまろやかな味で呑めない口のUさんも「美味しい!」 皆このひと時が楽しみ。 前菜はカンパチのカルパッチョ。たっぷりの量のカンパチにイクラと生野菜が乗っていてとても贅沢だ。 次はコックリしたポタージュにパン。 メインは肉と魚が選べるが、皆さんカロリーを気にして?「スズキとホタテの蒸し煮」に決まり。 この蒸し料理も魚のスープがズッキーニなどの野菜に染み込んで美味。 そして大きなプレートに熱々のパエリア。ムール貝やエビが豪華な演出で、感嘆の声が上がり写真を取るのも忘れてしまった。アッという間にウエイターさんが其々の皿に取分けてくれる。 デザートはメープルのアイスクリームとコーヒー。 これがランチとは!どれも美味しく皆大満足の様子です。 因みにお値段は2,940円と都心では考えられないお得感。 これではもう、ウォーキングは終わったような気になっちゃいますね 長い休憩で酔いも醒め、ようやく目的の高幡不動尊へ。 七五三のお祝いに詣でた人も多かったようで、晴れ着姿の親子連れが目に入る。 更に中へ進んでいくと、さっきの少年が白い胴着を着て幼い子に何やら指導している姿が! ここで空手の稽古をしていたのですね。 「写真を撮ってもいい?」と聞くと「うん」と言って階段に腰掛けてくれた。 空手の稽古┄┄元気なわけです。 ここ高幡不動尊金剛寺は不動堂を始め五重塔、大日堂、宝輪閣などの建造物や仏像など重要文化財の宝庫のようだ。 そして3万坪余りの境内には季節を彩る花木が参拝者を迎えてくれる。 左手のハイキングコースは八十八箇所連拝コースとなっており八十八体のお地蔵様が祀られている。 私たちはウォーキングが目的なのでお参りは次回にさせて頂き、紅葉を見ながらコースを歩くことにしました。 山道に作られた階段は勾配があり不規則で歩きにくい。普段自転車で飛び回ったり乗り物のお世話になっている皆にとっては少々キツかった! しかも下調べが足りなかったため、1番から順に進んだのではなかったようで、途中で迷ってしまった。 グルグル同じところを回って危うく遭難?お参りを省いたりしてはいけませんね。それにもっと大事なのは下調べでした。 少し暗くなり不安になったところで、立て看板の地図に辿り着き無事下山と相成りました モノレールで帰る頃には空は夕焼け、車窓からはかすかに富士山が見える。 いつに変わらぬ珍道中。でも今回は翌日ふくら脛が痛いほどしっかり歩いて「ウォーキングをやったぁ!」の達成感、満足感がありました。 そしてもう次の計画が練られているようです。 #
by akoy28
| 2010-11-20 22:58
| 散策
先日我が家のピアノを三年ぶりで調律しました。 三年も調律をしないなんて初めて。子供の頃からお世話になっていた調律師のMさんが病で臥せってしまい回復されるのを待つうちに気が付いたら三年も経っていたのです。 私の所有しているピアノは注文を受けてから製造するオーダーシステムを取っていた富士楽器製造株式会社のベルトーン(BELTON)。 グランドピアノは一般的に隣同士の2本の駒ピンに一本の弦を掛けて往復させています。しかしベルトーンは一本掛け(一本の弦を一つの駒ピンに掛ける)を採用する少数派です。 そのためにどんな調律師でも扱えるというものではなく、Mさんが倒れられて途方に暮れていました。 ようやく他の調律師を紹介して頂く決心がつき、新しい調律師のTさんがやって来た訳です。 Tさんはとても話し好きの方で、日本のピアノメーカの事情なども話してくださり、それには考えさせられる事が多々有りました。 昭和37~40年代にかけて、日本では沢山のピアノメーカーが出現しています。あるサイトによると日本のピアノブランドは270(一社でいくつかのブランドを出している所もあるからメーカーはそれより少ないが)もあるとのこと。 その中で今でも生き続けているメーカーは僅かしか無いのです。私の持つベルトーンの製造会社も採算が合わず残念ながら倒産。 今は二大メーカーのヤマハとカワイが殆どのシェアを占めています。 この大メーカーで量産されるピアノは機械生産が主流。 量産とは、「ある程度の年月使用したら買い替え」の思想で造られているということです。消耗品の扱いですね。 それ故かなりひどいピアノもあると聞き、寒々しい気持ちに襲われました。 そしてこのピアノ業界の在り方が調律師の世界にも多大な影響を及ぼしているとのお話。 MさんやTさんの時代には、調律師になるために楽器メーカーでの修行時代があり、楽器を造る工程を一から順に経験し最後に調律の勉強をしたそうです。 工場では同じ工程を二度と繰り返さないため、製造過程を一日も休まずに付いて行かなくてはならないとの事。休むことが多かったりすると落伍してしまう。 今はその修行をさせてくれる中小のメーカーも少なく、若い調律師の多くは調律の学校で速成されていると言うことでした。 職人的な修行をした調律師が少なくなってしまった今、大メーカーのピアノ以外を所有している者にとっては危機感があります。 調律という仕事について一般的には音の狂いを直すものと理解されている場合が多いと思います。 ピアノのように自分で調律できない楽器にとってそれも大切な仕事ですが、それが全てではありません。 Mさんにお願いしていた時も、数時間の仕事のうち調律そのものはそんなに長い持間をかけてはいませんでした。 Tさんも久しぶりという事もあって4時間ほどの時間をかけて見て下さっています。 その殆どが鍵盤、ハンマーなどをケースから取り出して削ったり、鍵盤とそれに続く棒の幅の調節だったりと様々な作業をし整調、整音と呼ばれる仕事をしているのです。 Mさん、Tさんの持って来られる鞄の中には様々な形をした道具がたくさん。 ピアノのドクターみたいだなと思ったことがありました。 職人技のメンテナンスには繊細な神経、集中力、体力等が不可欠のようです。 速成の若い調律師はピアノの構造をよく理解していない人が多く、また道具の使い方も知らないとTさんは嘆いておられます。 4年前に厚木にある中古ピアノを扱っている修理工場を兼ねた販売店を訪ねた時のことが思い出されました。 このことについては別に書こうと思います。 #
by akoy28
| 2010-11-12 16:50
| 音楽
10月30日 今日は午後からコンサートに行くつもりだったが、台風情報は昼過ぎから風雨が強くなると報道。
どうしようか迷いながらボンヤリテレビを観ていると、世界遺産を放送していた。 ボスニア・ヘルツェゴビナの「モスタル旧市街、スターリ橋地区」のタイトルで、文化遺産「スターリ橋」にまつわる取材だった。 このモスタルは1991年から始まったユーゴスラビアにおける内戦の激しい舞台になった街。 今もその傷跡は癒えておらず、この番組では毎年「スターリ橋」で開かれる伝統の「飛び込み」大会を廻っての、イスラム系の人々と一人のクロアチア人を取り上げて問題提起をしていた。 かつてクロアチアへ旅をしたことがあり、この内戦に関わる報道には関心を持っていたので、画面に吸い寄せられた。 この橋は非常に高く、下を流れる深い川までの距離は20メートルもあるところから、「飛び込み」の大会が行われるようになった。競技は400年の歴史があるとか。 内戦前は民族に関係なく、モスタルに住む男たちは飛び込みの腕を競って参加していた。 しかしもともと数の少ないクロアチア人の参加者は、内戦後にはほとんど居なかったと言うことだった。 ここに民族間の和解を願う若いイスラム系の選手が登場。この選手は優勝候補でもある。 彼は同世代のクロアチア人の選手に大会に出るよう説得し練習に連れ出す。 しかしクロアチアの選手は恐怖に囚われていて、なかなか飛び込む決心がつかなかった。 長い時間躊躇していたが、遂に飛び込んだ! 初めは恐怖から飛び込む姿が崩れ、「失敗だ!」とつぶやきながらも繰り返し練習している。 弟をクロアチア人に殺されたピンクさんという初老の男性はこの大会の審査員の一人だ。この人も弟もかつては優秀な選手だった。 「クロアチア人に対する憎しみは今は無いが、関わりは持ちたくない」と語った。 紹介されてもピンクさんはクロアチアの選手から遠ざかっていたが、彼が何度も飛び込んでいるのを見て、アドヴァイスをするようになっていく。 「飛び込み」を通して二人の心はわだかまりを超えて結びついていったようだ。 試合の当日、民族の壁を感じさせない観客からの和やかで、暖かい拍手がこの選手に送られていた。 スターリ橋 アーチを描くこの橋は16世紀のオスマン帝国時代に作られたもので周囲の景色、流れる川とともにとても美しい。(1993年内戦で破壊され2004年に修復された) モスタルに住むのはイスラム系の住民とクロアチア人。街の真ん中を流れるネレトバ川に橋は架かっている。 この川と脇の道路とを挟んだイスラム系住民の居住地とクロアチア人居住地とは内戦によって分断されてしまった。 戦争は家族、恋人、友達、親しい間柄をも引き裂く。そして内戦ほど悲惨なものは無い。 「弟を殺した相手も顔を知っていた者に違いない」とピンクさんは言う。 民族は長い歴史の中で融合してきた。夫婦がイスラム系民族とクロアチア人と言うケースもザラにある。 ユーゴスラビアの内戦による解体は、民族や国家間の独立と言う形で解決したように見えるが、未だに人々の心の傷は癒えず、複雑な人間関係、経済的な問題も解決されていない。 内戦が終わった一年後(1996年)に、周囲からは無謀だと言われながらクロアチアのドブロヴニクに近い町に所用で行った。 首都ザグレブは旅行案内書によると小ウイーンと言われる美しい街とあった。 そこに一泊し夜のザグレブを女二人で歩いたが、さすがに街の雰囲気は暗く、老舗と思われる大きな店舗も品数少なく寂しいものだった。 まだ兵士姿があちこちに見える時だったから、私たちの行動は蛮勇と言われるものだったかもしれない。 翌日、古い列車に乗り込んでアドリア海に面した小さな町へと。降り立った駅は雑然として色もなく、貧困に喘いでいる様子が伝わってくる。 私たちは古いお城で開催される音楽の講習会に参加するためにここを訪れた。日本からの参加者はやはり二人きり。 宿泊もその古城で取れるシステムだが、暗くガランとしたその部屋は手入れもあまりされてなく、落ち着かないものだった。 滞在中お世話になった食堂は、働く人が若くて明るく、とても親切。いつもラジオから軽音楽が流れていて、それに合わせて歌ったり踊りだすところに陽気な民族性が感じられてホッとしたのを思い出す。 町を少し歩くと目の前にはアドリア海が広がり、太陽の輝きと風光明媚な景色。この海の向こうはイタリアなんだ! 帰りの列車で出会ったお爺さんに「チャイナ?」と話しかけられて、片言のドイツ語と英語を交え(古い世代は英語を話せないとのこと。当時の社会体制からも当然だった)持っていた写真や身振り手振りで話が始まったことも懐かしい思い出だ。 大きな財布のような物から息子さんの写真を取り出して、誇らしげに見せてくれた笑顔も忘れられない。 この旅で出会った陽気で家族を愛する善良な人々を思うにつけ、内戦後の暗く悲しい報道は辛い。 一日も早く過去の忌まわしさから開放される日が来ることを願わずにはいられない。 (スターリ橋の写真はPakuさまよりお借りしました) #
by akoy28
| 2010-10-31 00:13
| 社会
ピアノ教室のイベントの一つにウォーキングが加わった。
10月17日、今回はじめての試みで、御嶽渓谷を歩こうと。 計画は御嶽駅から沢井まで歩き《豆らく》でランチ。 その後、小澤酒造の酒蔵見学、帰りは歩いて軍畑まで。 御嶽駅午前11時30分集合、賑やかに挨拶をかわしながらの出発。 駅前の道路を横断して渓谷への矢印がついた道標を見、階段を降り始めるともう水音がサワサワと聞こえる。 降りて行くと、目的地への道路は通行止め??? 仕方なく急坂をもと来た道へと。歩き始めの登りはキツイ! ようやく本来の道に辿りつき、久しぶりの再会であるUさんSさんも交えて、のんびりウォーキングが始まった。 雨予報が曇後晴れに変わったのに一向に晴れる気配はない。紅葉にはまだ早く曇天に木々は何となく生気を失っているかのようだ。 それでもここは流石に歩く人が多く、狭い道の行き交いに「こんにちは」と声を掛け合うのも清々しい。 道端や民家のあちこちに咲く秋の花々。川遊びをする人や、大きな岩や石がゴロゴロしている川岸でロッククライミングの練習をしているグループも。 あちらを見たりこちらを見たり、ウォーキングというより散策ですね。40~50分ほどでもう澤乃井ガーデンに到着した。 12時30分《豆らく》は満席。 《豆らく》とは小澤酒造が経営している有名な会席とうふ料理「ままごと屋」の姉妹店のひとつ。リーズナブルで気軽に利用出来る、とうふ料理のお店で大変人気がある。 いくつかの小鉢にとうふを色々アレンジした料理が盛り付けられ、大きな籠に見た目もかわいく入っている。 いかにも女性好み、どのテーブルも私たちのようなグループで占められていた。 ビールや日本酒などを嗜みながら談笑している風景がなんとも可笑しい。平和ですね~ 私たちもビールで乾杯! Uさん、Sさんのお子さん達の近況や保険のこと?(Sさんの保険に関するうんちくと考えに一同感心!)など尽きることのない話題で散々お喋りをし、予約した酒蔵見学の2時を過ぎるところではありました。 酒蔵見学 小澤酒造(東京の銘酒澤乃井の蔵元)では一日4回に分けて酒蔵見学をさせてくれる。 一歩入ると暗くてヒンヤリした空間。室温は一年中一定の温度(20度位)に保たれ夏涼しく冬は温かいとの説明を受ける。 こだわりのお米や水のお話。ゲンマイのタンパク質、脂肪分など余分な部分を削って落とし、更に鉄分などを削り取ったお米を蒸すなど勉強も。 最後の講義室では吟醸、本吟醸と純米酒の違いについても話された。 女性にとって有益なお話 「お酒は封を切らない限り何年経っていても呑める。封を切って古くなり酸味が出たものは料理に使ってみてください。味にコクとまろやかさが出ますよ。後はお風呂に入れてみてください、スベスベになります」 もっとも我が家では封を切ったら大抵はすぐに呑み切ってしまうのですが---(これからは呑み残しを隠しておこうっと?) そして楽しみにしていた、利き酒を。 櫛かんざし美術館 豆らくで櫛かんざし美術館の割引券(800円のところ600円)を貰った。このへんも商売上手だなぁと思いつつも行ってみた。 このコレクションは以前にも観たことがあるが、大したものではあった。 江戸時代から昭和に至るまでの櫛、かんざしを中心に紅板、はこせこ、カツラ、姫印籠、蒔絵矢立などコレクションは4000点に及ぶそうだ。 鼈甲や、象牙、ツゲを材料にした作品。螺鈿など自然素材を使った江戸の細かい細工、その技術には驚かされる。 「我が国の風土、日本人の精神的な豊かさと併せて、先人たちの類まれな器用さを示すものとして瞠目に値する」と案内のパンフレットにも書かれている。一つ一つ丹念に見ていたら数時間掛かるのではないだろうか。 明治、大正になるとプラスチックで作られたものも多くなり、時代の変遷も見て取れる。 奥多摩で、いにしえの贅沢な作品たちに出会えるとは✰ パンフレットより(写真撮影は禁じられています) 「澤乃井ガーデン」でおみやげ(モチロン蔵元お薦めの蒼天も)を買い、お茶を飲んでまたひとしきりお喋り。 結果的に(思いつきで?)盛り沢山になり、軍畑まで歩くことが出来なかった《ウォーキング》。次回こそ! 沢井の駅で電車を待っているうちに日はとっぷり暮れ、もう寒くなってきた。 みなさんお疲れ様でした。 30分以上電車は来ない! #
by akoy28
| 2010-10-24 18:03
| 散策
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